インクルーシブ教育って言葉にモヤモヤ

息子が通う学校、インクルーシブ教育を掲げています。

最初は共生、それはいいね、と思っていたのですが、最近はこの言葉を使われることにモヤっとします。

 

息子の通う学校は、近所はもちろん、学区をまたいだり、他県から引っ越してくる方もいるくらい、支援級に力を入れているところ。

そのため、毎年、普通級の全クラスに、支援級の先生が出向き説明をし、支援級の子どもたちの良いところを一緒に見つけることをします。

なので、子どもたちも、支援級の子どもたちへの理解が他の学校に比べて高めだと思います。

 

でも、最近感じるのは、子どもたちの優しさに期待しすぎじゃないですか?ということ。

この学校の子どもたちは障がい者に対して比較的慣れているので、困ったときには助けてくれるかもしれません。

弱者に対して心遣いができる子どもを育てているという意味では正解だし、障がい者教育もできているかもしれない。

でもそれは、学校としてインクルーシブ教育の実践ができているわけではないですよね?

 

健常の子どもたちが障がい児を助けてあげることで共生できる、ではなく、困り事がある子どもたちが自分の力でできるようにするツールやしくみを学校として整えて実践することが、インクルーシブ教育では?

その環境を整えるのは子どもたちではなく、大人では?

学校が、共生できるために工夫をして、障がいの子がそれによってできることが増え、お互いが無理せずいられるようにするのがインクルーシブ教育ではないのかなと思うのです。

 

入学前は、校長先生の支援級に対する熱意があると思っていたし、見学した授業も、個々に合わせて課題を与え、充実していたので、とても頼りがいを感じて決めました。

入学しても、校長先生は子どもたちの様子をよく観察し、直接話しかけ、子どもたちも大好きで、素晴らしい方だと思いました。

担任の先生も子どもの性格やできる度合いをとてもよく理解して、指導してくれ、大満足でした。

 

でも、学年が上がり、信頼していたベテラン先生が抜けたら、一気に校長先生の言っていることと、現状に乖離があるように感じました。

校長先生が子どもに伝えている話を聞くと、子どもの優しさや道徳観を育てていることは今でも分かるけれども、毎年掲げている理想を実践できる先生がどこまでいるのか。

 

特に今年度は、支援級の先生のうち、育休明けの先生と新任や講師の先生の割合が非常に高いこともあって、数年前の期待はどこいったのかと思うほど層が薄いんですよね。

そして、支援級でようやく育ってきたかなと思った先生が普通級に異動する。

異動によって、障がい者理解を浸透させ、交流級で活かせるようにと言っているけど、実際は支援級の先生の層が薄くなって(教師歴が長くても支援級の指導ができるかは別)、そもそも交流できる状態まで子どもを育てられておらず、交流級でのインクルーシブ教育の実践までいかないのです。

先生不足が深刻なのも分かるんですが、そのしわ寄せが支援級にきていることを、言い方変えてごまかしているように聞こえるのです。

 

そもそも、自己肯定感を損ねないように支援級で大切に、ということと、インクルーシブ教育を両立するのは、教員不足の学校では無理があるように思うのですが、どうなんでしょうか?

こんなことを直接校長先生に問いかけたいんですけど、最近なんだか言いづらくて。

学校も組織ですから、って、お使いのストッパー(若い担任)がいるんですよね(..;)

こんな小さな組織でトップがそんな遠いってどうなのよ!って思うんだけど。

 

インクルーシブ教育をするとなると、抜本的な日本の教育を変えることになるし、時間もかかるとは思うのですが、当人にとっては数年後でなく今どうするのっていうところ。

せめて、どんな方向に進めているのかが分かれば安心できるんですけどね。

 

 

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